交響詩 「フィンランディア」作品26 / ジャン・シベリウス(1865〜1957
フィンランド)
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1808年ロシアがフィンランドに侵攻しました。当時、フィンランドはスウェーデン支配下の大公国でしたが、スウェーデンがロシアの侵入を防ぐことができず、以後、ロシアに服属させられることになりました。そしてロシアがニコライー世・二世の時代になって、自治権がどんどん剥奪され、ほとんどフィンランドには自由が無くなってしまいました。このような状況の中で、フィンランドでは愛国独立運動が非常に高まります。フィンランドの文化庁ではこの気運を様々な行事によって一層高めようとしました。その一つとして民族的歴史劇「いにしえからの情景」が上演されることになり、シベリウスも参加することになりました。この劇の中から生まれたのが「フィンランディア」(フィンランド国内では、「スオミ」と題される)です。この作品の中に込められた熱い愛国心は聴衆に大変支持されましたが、それに気づいたロシア官憲は、この曲の演奏を禁止してしまいます。
曲は金管楽器が重々しく、民衆の苦楽を象徴するように始まります。これが木管楽器・慈楽器の悲痛な響きへと引き縦がれ、やがて激しさを増すと同時に、民衆の闘争心を喚起するようなアレグロ・モデラートヘと突入します。しかし、ここではまだ苦難を引きずっており、さらに低音部が闘争を呼びかけるように力強く鳴りだし、そのまま躍動感あふれるアレグロヘと展開していきます。激しいクライマックスの後、あの有名な「フィンランド賛歌」が奏でられます。民衆の平和への望みが静かに、そして厳粛に歌われます。この部分は、詩人コスケンニミエが詩をつけ、今でもフィンランドの準国歌として愛唱されています。その後再び闘争的な曲想へと変わり、最後に「フィンランド賛歌」が金管楽器で高らかに演奏され終止します。
初演は1899年11月、ヘルシンキのスウェーデン劇場にて、愛国歴史劇「いにしえからの情景」中の劇音楽として演奏されました。交響詩「フィンランディア」の形では1900年7月、パリ大博覧会において、ロベルト・カヤヌス指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団が演奏を行いました。
私たちは、このような民衆の思いを少しでも皆様にお届けしようと練習に励んで巷りました。本日の「フィンランディア」は皆様のお耳にどのように響くでしょうか?熱い思いを皆様と共有できれば幸いです。
ピアノ協奏曲 イ短調 作品16 / エドワルド・グリーグ(1843〜1907 ノルウェー)
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グリーグといえばまず、このピアノコンチェルトをあげる人が多いのではないでしょうか。冒頭部分からいきなり聴く者の心を捉えてしまいます。作曲者自身がピアノの名手であったせいか、楽器の特性を十分に生かした美しい曲です。
グリーグはノルウェーの港町ベルゲンで生まれました。ピアニストだった母の教えを受け、彼自身もショパンに深く傾倒し、「北欧のショパン」と呼ばれるまでになりました。19歳でライプチヒ音楽院を卒業、さらにコペンハーゲンに渡りガーゼに師事します。1864年、ヴァイオリニストのオーレ・ブルとともにノルウェ一国内を旅行し、各地で民謡を聴く機会を持ちます。さらに、民族主義作曲家ノルドラークを知るに及んで、国民音楽への道を歩むようになりました。「抒情小品集」作品12(1867)以後の作品から、国民音楽家としての主張が具体化されるようになります。このピアノコンチェルトにも、その主張がよく表れています。
グリーグは1867年従妹のソプラノ歌手ニーナ・ハーゲルップと結婚、その幸福な生活の中、1868年にこの協奏曲を完成させます。初演は1869年4月、コペンハーゲンで行われました。ピアニストはエドムンド・ネウパルトでした。この演奏会は大成功で、曲はそのままネウパルトに捧げられました。翌年、この曲を持ってリスト(当時59歳)を訪れた時、リストは初見で見事に演奏し、彼を絶賛したというエピソードも残っています。
非常にロマンチックな、そして演奏者の感情にまかせて自由奔放に歌われるこの曲が、本日、どのような演奏になるのかと、私たち自身もワクワクしています。私たちと独奏者のステージ上でのやりとりをどうぞお楽しみください。
この交響曲第4番は、二人の女性がその創作に大きく関わって生まれました。一人目はチャイコフスキーよリ9才年上の鉄道経営者の富裕な未亡人、フォン・メック夫人です。1876年の冬、当時モスクワ音楽院の教師であった36歳のチャイコフスキーは、教え子の仲介で、彼女から作曲を依頼されるようになりました。チャイコフスキーの音楽の大ファンだという彼女は、音楽院の給料がわすか50ルーブルであった彼に対して年額6000ルーブルという巨額の資金援助まで申し出たのです。これを受けた彼は、この援助を以後13年間に渡って受け続けることになりましたが、二人は1200通もの文通を交わしながら、一度も顔を合わせることがなかったといいます。「第4番」以後の3曲の交響曲や、バレエ音楽『白鳥の湖』『くるみ割り人形』など、その代表作のほとんどがこの援助で安定した生活の中から生まれたことを思うと、この不思議な交際を感謝せずにいられません。1877年5月の手紙で、彼は第4交響曲の作曲を始めたことを夫人に報じています。
もう一人の女性は、後に音楽史上で「悪妻」の名を残すに至った、アントニーナ・ミリューコヴァです。彼女はかつて音楽院の通信教育を受けたことのある28歳の女性で、チャイコフスキーとは一面識も無かったのに、熱烈な手紙を送り続けられた彼は同じ1877年の5月に婚約、7月には結婚式を挙げてしまいました。しかし1ヶ月後には早くも二人は別居し、神経症になった彼はモスクワ川に浸かって凍死しようとしているところを発見され、一命を取り留めるという騒ぎを起こします。その間に第4番の作曲は進み、第1楽章は9月12日に完成しますが、結局2ヶ月で離婚した彼は、メック夫人の援助で静養旅行に出かけます。そして翌1878年1月7日、イタリアのサンレモのホテルで全オーケストレーションを完成させたのです。表紙には「わが良き友へ」とメック夫人への賛辞を記しました。「この曲には冬の間ずっと私が経験していたことがすべて反映されています」という手紙は、精神的苦しみを内容の深い音楽に変えようとした努力の跡を伝えています。結婚生活は失敗しましたが、音楽面では一気に内容の充実した作品への歩みを生んだわけです。
初演は1878年2月22日、モスクワのロシア音楽協会演奏会で、友人のニコライ・ルーピンシュタインの指揮で行なわれ、イタリアのフィレンツェに旅行中だったチャイコフスキーには電報で成功が伝えられました。
●第1楽章 : ゆっくり、たっぷりと〜生き生きと、速く
この曲は全楽章についてメック夫人への手紙の文面が残っています。「運命は我々をねじ伏せます。暗い現実と、淡い夢との交錯が私たちの人生なのです。」明と暗が交錯する、実に密度の濃い音楽が続きます。
冒頭の重厚なファンファーレは、全体にわたって何度も鳴り続け、「運命の主題」と呼ばれるものです。
●第2楽章 : 歌うように、ゆっくりと
「仕事に疲れ果てた、もの憂げな気分」と記すオーボエのソロに始まり、様々な形で受け継がれる寂しいメロディーは印象的です。中間部は明るさを持ちますが、結局またもとのぽんやりした音楽に戻ります。
●第3楽章 : スケルツォ 速く
「酔っぱらった時に浮かぶ取りとめのない思い」とある通り、弓を一切使わない弦楽器がおどけた音楽をはじき続けます。中間部では管楽器がその性格をさらに強め、最後まで互いのかけ合いで音楽を高めてゆきます。チャイコフスキーの楽器の使い方や、編曲の絶妙さにぜひ注目して聴いてください。
●第4楽章 : フィナーレ 力強さをもって、速く
「運命」に振り回され続けた彼は、結局それを振り払い、喜びに身を任せるに至ります。「民衆の祭りの中に飛び込むのです。生きる希望がわいてくるでしょう。」第2主題はロシア民謡「野に立つ白樺」という曲ですが、変奏曲の形でこれを巧みに取り込み、最後は熱狂的な形で音楽を締めくくらせます。
彼の最後の年に書かれた歌劇「魔笛」の序曲です。
物語は、夜の女王の娘パミーナと隣国の王子タミーノを中心として、その従者パパゲーノと恋人パパゲーナの二組の恋人たちが巻き起こす、神秘的でにぎやかな内容で、大蛇の登場あり、宙吊りありと、様々な要素が盛り沢山に詰め込まれています。友人の劇場支配人シカネーダーが持ち込んだ台本を元に、すでに健康を害していたにも関わらす病気を押して3ヶ月余りで完成させ、モーツァルト自身の指揮で1791年9月30日に初演しました。上演を重ねるごとに人気は高まり、翌月にはウィーン中の人々が押しかけたといいます。しかし、評判とは逆に体調は急速に悪くなり、12月5日未明、35才で世を去ったのでした。亡くなる直前、パパゲーノのアリアを自ら口ずさんだという話が伝わっています。彼が最も愛した作品です。
序曲は、神秘的なファンファーレに始まる序奏に続いて、疾走するような2拍子の音楽へと続きます。次々と楽器が重なりながら興奮を高めてゆく音楽は、まさにモーツァルトです。なお、中間部で再びファンファーレが鳴りますが、これらはいずれも彼が作曲当時心酔していた宗教結社の儀式を表していると言われています。
作曲者のフォーレは、教会や寺院でオルガン奏者を長く務める一方、晩年はパリ音楽院の院長として数多くの音楽家を世に送り出すなど、フランス近代音楽に多大の貢献を残しました。歌曲とピアノ曲を中心に、室内楽が特に優れています。また、大作「レクイエム」(1877)も一度は聴いていただきたい名曲です。
1883年、37歳で結婚したフォーレは、妻のマリーを通じ、後にドピュッシー夫人となった銀行家バルダック夫人エンマをはじめ、社交界の様々な音楽家や演奏家らと交流を始めます。組曲「ドリー」は、歌手でもあったエンマの娘エレーヌのために書かれたピアノ連弾用の曲で、1898年、ピアニストのコルトーとリステルによって初演されました。
1908年、フォーレの後任としてパリ音楽院長を務めた作曲者のラボーによってバレエ音楽用に管弦楽に編曲され、一層広く親しまれるようになって現在に至っています。6曲から成る、楽しい曲です。
●第1曲:子守歌
ゆりかごのような伴奏にのってフルートが優しく歌います。NHKFMの朝の番組のテーマです。
●第2曲:ミーアーウ
題名は、猫の鳴き声。鳴きながら、ワルツを踊る猫です。
●第3曲:ドリーの庭
ドリーとは、エンマの娘エレーヌの愛称です。転調する部分の美しさが聴きもの。
●第4曲:キティのワルツ
元の綴りは「ケティ」で、こちらはエレーヌの兄ラウルが飼っていた犬の名前。可愛い曲です。
●第5曲:優しさ
弦楽器を中心にした祈るような音楽。美しい響きをもっています。
●第6曲:スペインの踊り
作曲家シャブリエの狂詩曲「スペイン」を思わせる、明るく華やかな舞曲で締めくくります。
この曲の原題は「パセティーク」。日本語では「悲愴」と訳しています。「愴」は普段目にしない文字ですが漢和辞典の字義は「悲しみで心を痛めつけて悲しい思いをすること」。同じ名のベートーベンのピアノソナタと並び、字義を見ないとわからないほど見慣れないこの語が(「悲壮」となるとりりしさが加わって別の語に・‥)国語辞典に載っているのは、この2つの名曲が私たちに余りにも知られているからだろうと私は思っています。(ちなみに、ベートーベンの方を聴いたことのない方は、ぜひ第2楽章からお聴き下さい。ああ、これかと…)
今、チャイコフスキーが生きていたら、きっと流行作曲家になったでしょう。特に数々のバレエ音楽はどれも親しみやすいメロディーにあふれ、CMや丁∨番組でも繰り返し使われています。この曲の第1楽章で歌われるせつないほど美しいメロディーも、ポピュラー音楽にアレンジされてヒットしたものでした。そして、あふれんばかりのせつなさを歌う第1楽章と、胸を打つ悲しみに満ち満ちた独創的な最終楽章は、初演後わすか9日日で作曲者が謎の死を遂げてしまったことと相まって、この曲の名と人気を不動のものとしたのです。亡くなる前に弟のモデストが提案した「悲愴」の語に、「うまいよ、それだ。」とチャイコフスキーが喜んだ話は有名です。
19世紀後期の帝政ロシアを生きたチャイコフスキーは、数々の名作でロシア国内はもとより海外でもその名が知られ、ヨーロッパ諸国やアメリカに招かれて豊富な海外体験を重ねることで、自国の直面している社会状況の息苦しさをより客観的に実感していました。先ほど挙げたベートーベンの曲が短調の響き、いわば「雰囲気」を示すためだけの表題であるのに比べ、この曲がラストに向かって響かせる絶望的なまでの暗さは、晩年になって訴えかけた彼の社会意識ではなかったかとも思えるのです。世紀末の日本を生きる私達は何を思うのでしょう。
初演は1893年10月28日、作曲者自身の指揮でペテルスブルグで行われました。ちなみに、初演の不評に沈む中、生水を□にしたことでコレラにかかって突然死んだといわれていた死亡原因は、作曲者のスキャンダラスな人間関係の発覚を恐れた「ヒ素」による自殺記(あるいは他殺)が近年話題になったことを御存じの方もあるでしょう。真偽はわかりませんが、彼の最後の、そして最高の作品として、不滅の価値をもつ名曲となりました。
●第1楽章 ゆっくりと〜速く、しかし、過度にならず
重苦しい和音の中を、ファゴットがうめくように歌い始め、込み上げる思いをためらいながら吐き出してゆく音楽へと導かれてゆきます。人生に、社会に疲れているかのような気ぜわしい第1主題。続いて彼の音楽の中で最も美しいものの一つであるせつなく甘い第2主題。そして、突然襲いかかる激情の嵐。悩みに直面した様々な心の揺れを示すかのように、音楽は刻々と表情を変え、最後はひと時の安らぎを得るかのように終わります。
●第2楽章 速く、優美さをもって
ワルツはチャイコフスキーの得意芸です。数々のバレエ音楽をはじめ、第5番交響曲でも採用していました。ただ、この曲ではロシア民謡のリズムに多い5拍子を用いることで、本来は3拍行って3拍戻るワルツリズムの波が、2拍−3拍という不安定な波になっているせいでどこか虚ろな響きに聞こえます。中間部で低音楽器の5拍子の鼓動にのって細かい波のうねりが繰り返されるところも効果的です。
●第3楽章 速く、非常にいきいきと
交響曲の伝統的スタイルでは速い3拍子や6拍子の来る楽章に、彼は独創的発想でマーチを持ってきました。8分の12拍子の飛び跳ねるような第1主題と4分の4拍子の第2主題が絶妙にからみ、何度か繰り返されながら最後は勇壮な大行進曲になります。しかしこれも見方を変えれば、栄光や、富や、勝利も、みな一時のものだと主張しているのかもしれません。輝くような響きが悲痛な最終楽章とは対照的で、互いに引き立て合います。
●第4楽章 たいへんゆっくりと、悲しみをもって
人も、自然も、何かしら不安定なことの多かったこの一年、皆様にとりましてはどんな年でしたでしょうか。最終楽章が私たちに与える「悲愴」な響きは、ほかの、誰の、どの交響曲にもないものであり、絶望的なまでに暗いものです。しかし、本当に辛いことや悲しいことに沈んでいるとき、それを「癒す」のはこうした音楽だと言われます。どうぞ、流れに身を任せてください。最後に向かって次第に楽器が減ってゆき、ロウソクの灯りが消え、何かを祈るように曲が終わるとき、皆様が様々な思いをもっていただければと願っています。
1809年、40才目前のベートーベンは、ウィーン宮廷劇場からゲーテの戯曲「エグモント」のための作曲を依頼されます。同じドイツに生まれたゲーテは、彼が最も敬愛する文学者でした。二人は後に親交を結び、ゲーテも21才年下のベートーベンのことを「これほど集中的、精力的、内面的な芸術家に会うのは初めてだ」と夫人への手紙に書いています。すでに歌劇「フィデリオ」を完成、また「熱情」「運命」「田園」「皇帝」など、次々とその代表作を発表し、最も円熟した時期にありました。
エグモントは、16世紀にスペインの支配下にあったオランダの独立に尽くした愛国的な将軍の名です。結局は投獄されて処刑され、彼を助けようとした恋人もその後を追って死を選ぶ、という悲劇はベートーベンの共感を呼び、特し劇の上演に先だって演奏された序曲は、この戯曲のために作曲された10曲の音楽の中でも特に有名なものとなりました。重くのしかかる運命、人々の叫び、圧政をはね返そうとする力。苦しみを通じて歓喜へ至るという彼の思想は、この曲でもはっきりと示されています。10分足らずの短い曲ですが、まさにベートーベンの音楽そのもので、緊張感がみなぎり、実に密度の濃い、充実した内容を持つています。
世界で最も有名なカップルがこの世に生まれたのは1595年。ちようど400年前のことです。シェイクスピアが書いた最初の悲劇作品に当り、その名を決定的にしました。憎しみに引き裂かれる愛は国や時代を越えて人々の胸を打ち、また今宵演奏するチャイコフスキーを始め、ディーリアス、ベルリオーズ、プロコフィエフ、バーンスタインの「ウエストサイド・ストーリー」など、多くの作曲家を刺激したのです。
1869年夏、モスクワで友人のバラキレフからロメオとジュリエットの話を聞いて感動したチャイコフスキーは早速作曲を開始して、11月こは早くも完成。バラキレフ主催の作曲家のグループの集まりで初演されて絶賛を博しました。弟への手紙の中に、「私はこの悲劇を音楽に置き換えるために生まれてきたかのようです。私の音楽的性格にこれほど似合っている曲はありません」と書いたチャイコフスキーは、この時29才。まだ交響曲第1番を書いたばかりであら削りな楽器の使い方もありますが、それがかえって魅力でもあり、何よりも全体にあふれる情熱と美しいメロディーは、この作品を名曲の名に恥じないものにしています。
作曲に際してチャイコフスキーが選んだ方法は、あらすじを追ったり、人物のテーマを決めることではなく、話の中から三つの要素を抜き出すことでした。すなわち、モンタギュー家とキャプレット家との対立、ロメオとジュリエットの激しい愛、そして二人の死という三つです。それらが衝突し合い、発展してゆく形で進みます。
曲は、二人の愛の悲劇的結末を予言する教会のコラ−ル風の重いテーマで始まり、やがて弦楽器の悲痛な音が絡みはじめ、緊張が増したあと、激しい闘いに突入します。互いに傷付け合う二つの家の対立。
中間部は、この曲の中で最も有名な愛のテーマです。弱音器付きのビオラとイングリッシュホルンに始まり、楽器が増えてゆきます。最初はとまどいつつ、やがて思いを確かめ合って成長してゆく愛が見えるようです。
そして再び、今度は両家の対立の主題と冒頭のコラ−ルの主題が交錯してゆき、オーケストラの全合奏で愛は最高に達します。最も感動的な蔀分です。しかし、対立の主題は愛をねじ伏せてゆき、最後に息絶えるのです。
悲劇を訴えたあと、コラ一ルは明るい響きとなって二人の永遠の愛を願い、曲を閉じます。
ブラームスの交響曲第2番は第1番発表の翌年に一気呵成に書かれました(なんと第1番は完成までに20年もかかっているのに)。しかも、その性格は第1番とまるっきり違っているのです。ニーマンという人は、この曲にブラームスの「田園交響曲」というあだ名を付けましたが、それはベートーベンの自然を描写した「第6番」とは違って、たんに雰囲気が柔和で温かく、喜ばしいものであるというだけのものであったらしいのです。しかし、この曲はそんなに単純なものではありません。練習をしていていつも感じることは、この曲が、いかに内面的であるかということです。はじめて聴いた時は、そののどかさに温かい気分にさせられるのですが、しだいに胸がきゅーんと締めつけられてきて、曲が極みに達するあたりでは、もう涙無しにはいられないということになるのです。
まず第1楽章ですが、ホルンの第1主題がこの世のものとは思えないほどの美しさとなつかしさで始まります。そしてヴァイオリンの優しい、まるで恋人にささやさかけられているかのようなメロディーに導かれて、チェロとヴィオラの第2主題が始まります。このあたりの展開の仕方は、これぞブラームスといいたいほど官能的なものです。それだけではなく力強い所も何回か現れます。ここがまたいい。その響きがドイツ的と言おうか、重厚と言おうか、とにかくじわーとくるのが最高。
第2楽章はものすごい哀愁感がただよっています。それも表面的じゃない。何というか、心の奥の奥までえぐられるような、そんな楽章です。それだけに練習でもなかなかテンポが定まらず、響き作りもああだこうだと試行錯誤の連続でした。
一転して第3楽章は親しみやすく、初演時にはアンコールをうけたほどの人気のある楽章です。しかし、それが曲者。弦楽器の難しさには随分と悩まされました。
そして終楽章。歓喜の楽章です。どのパートも生き生きと演奏します。この楽章は練習もかなり楽しくできました。クライマックスの華やかさを存分に味わってください。
今宵は皆さんに「魔弾」の作り方を特別にお教えしましょう。射手座の月触の深夜、場所は深い森の奥。道が十字に交差する所に円を描き、かまどを作ります。その中で墓地から盗んだ十字架の鉛を溶かし、雷で倒れた木の屑、コウモリの心臓と肝臓、泥棒の処刑に使われた鎖、手を負傷した狩人の血などを加えた上で、最後に溶けた全ての材料を、処刑者の頭蓋骨の目玉の穴を通して鋳型に流し込んで出来上がり。この弾丸を使えば目指す標的は百発百中。しかし出来上がるまでの間は様々な妖怪が回りを囲み、炎に包まれた馬車が空中を飛び、何百という亡霊が現れるとか。材料をそろえられる恐いもの知らずの人は、ぜひ一度お試しを。
火薬と銃器が飛躍的に発達した17世紀の初めのドイツでは、命中を夢見る狩人の間でこんな伝説が生まれ、そこに「ファウスト」に代表される悪魔信仰が結び付いて、「魔弾の射手」の原作となる話になっていきました。すなわち、この弾丸は悪魔と契約を結ばねば手に入らず、期限が切れると魂を与えねばなりません。その前に新しい狩人を見つければ、自分は呪いから解放される、というのです。35歳のウェーバーはこれをオペラの題材にし、一時の気の迷いで魔法に頼ろうとしたマックスが、恋人のアガーテの愛の力で救われるという筋にしました。
序曲は、静かな森の描写の序奏に始まり、有名なホルンのメロディーが静けさを深めます。主部は狼谷で魔弾を造る不安な夜の音楽に始まり、マックスの身を案じるアガーテのアリアをクラリネットが歌ったのをきっかけにして明るくなり、悪魔の力に打ち勝つように曲が進んでゆきます。劇中の名旋律を巧みにつないだ序曲は、ドイツロマン派を最も代表するこのオペラの雰囲気をみごとに伝えてくれます。ウェーバーの名を不動にした名作です。
『いつも大きなことを言って母親を困らせている若者ペール。何と今日は招かれてもいない結婚式に現れたかと思うと、突然その花嫁をさらって山へ逃げこんでしまう‥‥』
グリーグが、同じノルウェーのイプセン(1828〜1906)から劇音楽の作曲を依頼されたのは、1874年、31歳のときです。台本をもらってみて彼はびっくり。冒頭からこんな激しい誌で始まり、その後は妖精や魔人の住む山の魔王に捕らわれたり、モロッコヘ渡って盗賊に襲われたり、アラビアでは砂漠の美女に宝石を盗まれたりと、今まで落ち着いた叙情的な作曲をしてきたグリーグは、その波乱に富んだ内容にー度は依頼を断りかけたほどでした。しかし、研究してきたノルウェーの様々な民族的な素材を生かそうと決心、2年をかけて完成された曲は、今では彼のオーケストラ作品を代表する傑作となったのです。初演は大成功し、その年だけで36回も上演される劇となりました。今これが映画化されたら、インディー・ジョーンズに匹敵する冒険活劇が生まれる、と思うのですが。
1850年、41歳のシューマンは友人の推薦のおかげでライン河のほとり、デュッセルドルフ市楽団の指揮者の地位に就きます。それまで生活に苦労していた彼はこの町では歓迎され、心の状態も安定して仕事に集中する生活が始まりました。9月2日に着任、早速これも傑作のチェロ協奏曲を10月に書きあげ、続いてこの曲に書手、11月2日に書き始められ、12月9日には早くも完成します。まさに、晩秋のライン河畔の生活から生まれた作品であり、河を数キロ逆上ったケルンの町の印象、地元の舞曲などがもとになっています。
この曲は、1980年の加古川市政30周年の記念曲として、市の委嘱で作曲されました。作曲の岩河三郎先生は、おもに合唱や吹奏楽曲の分野で多くの作品を発表されており、1972年の札幌オリンピック行進曲や、1980年度の全日本吹奏楽コンクール課題曲「北海の大漁唄」などが有名です。当時、作曲に際して加古川を訪れた岩河氏は平荘湖・日岡山公園・鶴林寺・浜の宮公薗・河川敷など市内各所を見て回られ、曲想を練られたそうです。曲の最後の部分では作曲者自身の作詩による「加古川讃歌」が挿入され、加古川の更なる発展を願う爽やかな歌詞となっています。
「加古川讃歌」の歌詞は次の様なものです。
「加古川/美しい街並み/加古川/きれいな川よ/ゆたかな心を育てる我が街/加古川/我らの加古川/とわに開けゆく/われらの/加古川!」
天才モーツァルトがわずか8才の時に書いた、交響曲第1番です。
すでに4才でピアノ協奏曲を書いたアマデウス少年は、父レオポルドの意志によって6才の時にミュンヘンとウィーンヘその天才ぶりを示す演奏旅行をしたのを最初として、以後の人生の大半を旅に生きました。18世紀の後半のヨーロッパ各地で吸収した様々な音楽は、後に不滅の曲の数々を生み出す素地になつてゆきます。
交響曲第1番は、1763年6月から3年半に及んだ第3回ヨーロッパ旅行の際のロンドン滞在中、セバスチャン・バッ八の息子のクリスチャン・バッハの大きな影響で作られました。当時イタリアでオペラの序曲が発展して生まれた「速い―遅い―速い」という3楽章構成の形式に従っています。初演は1765年2月、編成は弦楽器と、管楽器はオーボエにホルンだけという実にシンプルなものです。35年の生涯に600曲以上の名曲、後に彼の作とわかったものを含めると、交響曲だけでも51曲もの作品を残した天才の、最初の輝きをお楽しみください。
なお、第2楽章途中のホルンパートに、後に彼が好んで用い、最後の交響曲「ジュピター」の有名なテーマになることで知られる「ジュピター音型」が登場します。注意してお聴きください。
6年前の91年はこの作曲家の没後80年で、まさに「マーラーブーム」に沸いた年でした。ウイスキーのCMに事実上第9番目の交響曲である「大地の歌」の第3楽章が使われ、また、全編に渡って第5交響曲の第4楽章を用いて絶大な効果を挙げたイタリアの名匠ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」(これはマーラー没後60年に作られた映画)が再上映されてヒットしたのです。生前「やがて私の時代がくる」との言葉を残したマーラーの音楽は、その通りに今やすっかり私たちに馴染みとなり、近年のクラッシック音楽ブームの一角を担っています。
今宵、この加古川で初めて演奏されるグスタフ・マーラーは、1860年、ボヘミア(今のチェコスロバキア)に生まれました。10歳の時にピアノ演奏でデビューして神童と呼ばれ、18歳でウィーン音楽院を卒業後、8カ所にのぼるヨーロッパの主要な歌劇場の指揮者・音楽監督を歴任し、指揮者としての地位を固めてゆきます。
そして1887年5月、当時のヨーロッパ音楽界最高の地位であったウィーン国立歌劇場の第6代総監督に27歳で就任、以後の10年間に数々の改革を成し遂げた彼は、ウィーンフィルハーモニーの指揮者としても活躍、現在のウィーンの音楽界にもその影響を及ぼす業績を残しました。ちなみに、この劇場の音楽監督を10年も続けたのはマーラー以後にはおらず、これに継ぐ記録としては6年間を務めたあのカラヤンがいるだけです。
このようにオペラ指揮者として輝かしいキャリアを残したマーラーでしたが、オペラ作曲家としては若い頃に1曲を残すだけで、その関心はもっぱら歌曲と交響曲へと向けられました。交響曲の伝統に最後の輝きを加えたいずれも長大で巨大な編成の作品は、どの曲も若い頃に失った母への思いと、生来の病弱さからの死への恐れ、ユダヤ人としての誇りなどに貫かれています。ただ、この第1番は、最後の未完のものも入れると11曲にもなる彼の交響曲の中では最も親しみ深く、高い人気を誇っているのも、明るく堂々としたその音楽性が理由であり、次第に宗教性や哲学的な要素を深めてゆく後期の交響曲とは明らかに一線を画しています。
作曲は、マーラー24歳の1884年に始められ、88年に完成、翌89年11月、作曲者自身の手によってブタペストで初演されました。その際には、二つの部分からなる「交響詩」として発表され、現在の第1楽章と2楽章の間に「花の章」と題するもう一つの楽章を置き、前半には「青春の日々」、後半には「人間喜劇―地獄から天国へ」との題名が付けられていましたが、7年後の再演の際、「花の章」そのものと、これらの題名も削除されます。
第1部が現在の第3楽章まで、第2部が今のフィナーレです。また、現在の「巨人」という題名も、もともとはマーラーが当時感銘を受けたドイツ後期ロマン派の作家、ジャン・パウルの小説のタイトルからの引用なのですが、これも後に削除してしまいました。青春の日々の憧れや、悩み、挫折、そして希望といったこの曲の内容を示すには、確かに誤解を招きそうな題です。作曲者が捨てた題ではありますが、ベートーベンの第5交響曲を、聞こえのよい「運命」と呼び続けているように、今回は堂々たる曲想を伝えるこの通称をあえて採用しました。
●第1楽章 ゆっくりと、引きずるように
チューニングの音「ラ」はオーケストラ音楽の基本です。これを7オクターブにわたって積み重ね、「自然の音のように」と記した響きで夜明けの澄みきった大気が広がり始めます。彼が小さいころ耳にしていた軍楽隊のラッパが遠くで聞こえ、クラリネットがカッコーの鳴き声をあげる中を、朝の散歩です。チェロが歌い始めるのは同時期に作曲していた歌曲集「さすらう若人の歌」の第2曲「朝の野辺を歩けば」の旋律で、牧歌的な雰囲気が次第に深まり、何度もフルートの小鳥がさえずる中、ホルンの狩のラッパも聞こえ、やがて高く昇った陽の光に包まれて大きな盛り上がりを見せます。実に多彩な楽章です。深い森と、夜明け、青春の喜びを表現します。
●第2楽章 力強く躍動的に、しかし速過すぎず
削除前の題は「順風満帆」でした。「速い−遅い−速い」の三部構成の、活気に満ちあふれたスケルツォで、中間部は特に夢見るような柔らかい音楽です。この楽章後、十分な間をあけること、と楽譜にあります。
●第3楽章 厳かに重々しく、引きずらずに
ティンパニが打ち続けるリズムに乗ってコントラバスのソロが「葬送行進曲」を奏で始めます。次第に楽器が増えて、森の中を動物たちが進むお葬式の行列が描かれるのです。中間部に再び「さすらう若人の歌」の今度は第4曲「彼女の青い目が」の旋律が引かれ、恋人への憧れが歌われますが、再度、葬送の音楽へと戻るのです。ちなみにこの音楽は本来明るく楽しいフランス民謡の「フレール・ジャック」を短調で悲しく演奏したもので実にうつろに響きます。挫折の思いを伝えるのでしょうか。消えるように終わり、切れ目なく4楽章へ。
●第4楽章 嵐のように激動して
シンバルの強打から激しい音楽が始まり、すさまじいばかりの嵐と激情が吹き荒れます。中間部で森の音楽が回想される部分は印象的。最後は巨大な歓喜を迎えます。
この曲を書いたころ、スメタナが聴力を失っていたということをご存じでしょうか。
ピアニストとして出発し、やがてリストに認められてスウェーデンで指揮者として成功を収めた彼は、40才を過ぎて発表した歌劇「売られた花嫁」が熱狂的に支持されてチェコの国民劇場の首席指揮者に就任、それ以後、ボヘミアの民族性を生かした数々の曲を発表して「チェコ音楽の父」として慕われる存在となりました。
そんな彼を耳の病気が襲ったのです。それは、周囲の国々からの強い圧政に苦しんできたチェコスロバキアで 人々の愛国心を支える曲を書き続けてきた作曲家にとって、創作意欲の頂点の時期に訪れたつらい試練でした。しかし、耳鳴りの音をモチーフにした弦楽四重奏「わが生涯より」を創作するなど、自分の運命と戦いながら、6年をかけて6曲からなる連作交響詩「わが祖国」を完成、1882年に初演したのです。後に、命日の5月12日に開幕される「プラハの春」音楽祭の冒頭でチェコ・フィルによって演奏されるようになり、今も続いています。
「モルダウ」は「わが祖国」全体の2曲目にあたり、プラハ市を流れるヴルタヴァ河(ドイツ名モルダウ)を 描いた曲です。それぞれの部分に作曲者が付けた見出しから、次のような河の情景が描かれてゆきます。
「二ヶ所から水が発し(2本のフルートと水滴のハープ・弦楽器のピチカート)、次第に水かさが増してゆく (低音弦楽器のうねりに乗って、有名なテーマが始まります。何度聞いても胸を打つメロディーです)。やがて両岸には狩猟の角笛と田舎の踊りの音楽がこだまする(金管楽器のファンファーレに続いて、2拍子の舞曲)。日が落ちて、月の光に妖精が踊り(弱音器を付けた弦楽器)、夜が明けて流れは急流にさしかかり、波しぶきを上げて飛び散りながら河はプラハ市に流れ込み、河岸の古域ヴィシェフラドを過ぎて遠くへ流れ去ってゆく。」
最後の部分で、モルダウのテーマと、「わが祖国」第1曲「ヴィシェフラド」のテーマが一つになるところは 感動的です。曲の流れがたいへんはっきりしていますので、それぞれの情景を思い描いてお聴き下さい。また、「シャルカ」「ボヘミアの牧場と森から」「ターボル」「ブラニーク」と続く全曲を、機会があればぜひ聴いて
いただきたいと思います。いずれも、チェコの歴史上の英雄や土地の名をもった愛国的な音楽です。
くるみの実をくわえさせ大きな□を閉じると堅い穀が割れる人形を、クリスマスイブの夜にプレゼントされた 少女クララ。その夜、夢の中で王子に変身して二十日ねずみの軍隊と戦う人形を助けてやったクララは、お礼にお菓子の国へと招待されます。『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』に続き、1892年、作曲者が亡くなる1年前に完成した3曲目のバレエ音楽で、原作はドイツの作家ホフマンの童話『くるみ割り人形とねずみの王様』です。
ちなみに、昨年の暮れに河出文庫で日本語訳が出版され、原作のもつ幻想的な雰囲気を味わうことができます。
フンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』と並び、クリスマスの時期になると世界中で毎年のように 取り上げられ、3つのバレエの中で最も上演回数の多い名作です。
現在、組曲の形で演奏されるのは、バレエの完成直前に作曲者自身が演奏会用に抜粋してまとめたものです。
メロディーメーカーのチャイコフスキーの才能がこぼれるばかりに満ちた、数々の音楽をお楽しみ下さい。
1.小 さ い 序 曲
いたずら好きの子供たちが登場する雰囲気を巧みに表現しています。低音楽器はお休み。
2.行 進 曲
軽快なマーチにのって、クリスマスツリーの回りをはしゃぎながら回る子供たちの姿。
3.こんペい精の踊り
ここからはお菓子の国へのクララの歓迎パーティーの音楽です。
まず出迎えるのは、女王のこんぺい糖の精。当時発明されたばかりの鍵盤楽器チェレスタの音色を使いたくて書いた曲です。
4.ト レ パ ー ク
ロシアの民族舞曲で、いわゆる「コサック・ダンス」の音楽です。速さを増してゆきます。
5.アラビアの踊り
ぽんやりとたち昇る煙のような雰囲気の中、エキゾチックに踊るコーヒーの精。
6.中国の踊り
ファゴットが刻むユーモラスな伴奏にのって、フルートの奏でる「お茶の精」が踊ります。
7.あし笛の踊り
アーモンドの精があし笛を吹いて踊る様子を、三本のフルートが演奏します。
8.花のワルツ
女王こんぺい糖の精の侍女が華やかに踊ります。ディズニー映画『ファンタジア』の映像を思い出す方もあるでしよう。
中間部のビオラとチェロのメロディーも実に魅力的です。チャイコフスキーの書いた最高のワルツです。
北欧の強い民族性に満ちた音楽です。シベリウスにいつも付いて回る「森と湖の国フィンランド」という言葉は、一度その音楽を聴けば、なるほどと
思わずにはいられません。どの曲もどの曲も、です。こんな作曲家はほかにいないでしよう。
一度は法律家の道を歩んでいた彼は、ヘルシンキ音楽院で作曲を専攻し、ベルリン、ウィーンヘ留学した後、 27歳で「クレルヴォ交響曲」を発表、日本の『古事記』に当るフィンランドの叙事詩『カレワラ』を題材にしたその音楽は絶賛され、ロシアの支配下で文化もヨーロッパの模倣だと自信を失っていた人々の愛国心を刺激して大成功をおさめました。
フィンランドの音楽界で注目を浴びるように なった彼は、短い期間に組曲「カレリア」、交響詩「エン・サガ(伝説)」「トゥオネラの白鳥」などを作曲、 1897年、32歳の時に政府から芸術家に対する終身国家年金を支給されることになりました。彼がどれほど期待をされていたかお分かりでしようか。その結果一層仕事に打ち込めるようになって、あの「フィンランディア」、そして第1交響曲と、さらなる名曲を生み出してゆくのです。興味深いことに、百数十曲を書いたあと、1925年以後ほとんど作曲をせず、晩年の30年余りはラジオから流れる自分の曲を聴く余裕の日々を送ったといいます。
交響曲第2番は、1902年、第1番の2年後に完成、その年の3月8日にヘルシンキにおいてシベリウス自身の 指揮で初演されました。ドイツ・ロマン派とチャイコフスキーの影響の濃いかった第1番に比べ、彼自身の個性と民族的色彩が鮮明な音楽が強く支持されて、今では彼の7つの交響曲の中で最も演奏される曲となっています。
皆さん御存知のとおり、このオペレッタは大変有名で世界の一流歌劇場の重要な上演曲目 には必ずかぞえられています。内容は、アイゼンシュタイン男爵に、以前恥をかかされたファルケ博士(その時に博士は「こうもり博士」という不名誉なあだ名を付けられる)が、男爵
の妻や、侍女までも巻き込んで仕返しをしようとしますが、そこに男爵の妻の昔の恋人まで もが関わってきたので大騒ぎになるという物語です。
この序曲は、全幕のきかせどころをポプリ(接続曲)風につなげたものですが、その美しい音楽のため大変親しまれやすいものに なっています。曲中のおもしろい部分を紹介しておきましよう。冒頭部がオーボエのやわらかな旋律をはさんで演奏されたあとに、レントで「時の鐘」が六つ鳴らされます。じっと耳をすましてお聴き下さい。また、有名なワルツのあとに、オーボエが男爵の妻(ロザリンデ)の嘆きを哀しくうたいあげますが、その次のポルカ風のメロディーがだんだんとにぎやかになっていく部分は、男爵が牢獄に入れられる悲しみが昔の恋人の登場によって喜びに変わっていく部分をあらわしています。そして、今までのメロディーが再現されつつ、華々しさを
まして序曲が終わります。とうぞ物語を想像しながらお楽しみください。
豊かな資産家の家に生まれ、少年期からの音楽教育で才能を開花させたメンデルスゾーンは、神童と言われたモーツァルトに比べられたほどの早熟ぶりでした。バッハが今日評価されているのも、彼がその作品を研究して熱心に演奏・紹介をして回った結果であり、また音楽学校を設立して多くの音楽家の育成に努めるなど、数々の業績を残したのです。
名門のゲバントハウス管弦楽団の指揮者に26才で就任した際、同時に、当時名手の評判の高かったヴァイオリニストのフェルディナンド・ダビッドがコンサートマスターに迎えられました。ダビッドはメンデルスゾーンと同じハンブルグに生まれ、一つ年下でしたが、その親交は38歳の若さでメンデルスゾーンが亡くなるまで終生続き、この協奏曲の誕生も、その存在があってのことだったのです。曲は29歳の夏から作られ始め、ダビッドの度重なる助言で6年後に完成、1845年の3月に彼の独奏で初演され、大成功をおさめました。以来、「ヴァイオリン協奏曲」と言えばこの曲が浮かぶほど誰一人知らぬ者なき名曲として伝わってきたことは言う
までもありません。
1888年、作曲者48歳の5月から8月にかけて作曲されました。第4番から10年、交響曲のジャンルからは遠ざかっていた彼が作曲に取りかかったのは、前年に出かけたヨーロッパ演奏旅行の好評に勇気付けられたからで、帰国後に、『第5交響曲』『眠りの森の美女』『くるみ割人形』、そして第6番『悲愴』と、生涯の最後を飾る名作を立て続けに発表してゆきます。第5番はその出発点となった点で重要な作品なのです。ちなみにこの時の旅行では、グリーグ、マーラー、R・シュトラウスらの作曲家と交際を重ね、チャイコフスキーの名は、彼らによってさらにヨーロッパ中に広まりました。それだけに、6年後の突然の死は全世界に衝撃をもって伝わったと言います。
構想に4週間、オーケストラに直すのに3週間かけ、完成したのは8月26日、同年11月17日にペテルブルグで彼自身の指揮で初演されました。当初の不評も演奏が重ねられるにつれ次実に好評へと変わり、「何か不自然なものを感じる」と不満をもらしていた本人も成功作として評価するようになったと言います。今日では、第4番以後の三大交響曲の中でも第6番『悲愴』と並んで演奏される機会の多い名曲として、ゆるぎない評価を受けています。
●第1楽章 ゆっくりと ホ短調 〜いきいきと速く ホ短調
何かに引きずられるような重苦しい曲が始まります。「運命の主題」と言われているテーマで、全楽章に渡り何度も形を変えて現れます。アレグロになってからのクラリネットとファゴットの奏でるメロディー、途中から弦楽器の奏でる柔らかなメロディーと、何度か表情を変えますが、最後は寂しい感じで終わります。
●第2楽章 ある程度自由に、ややゆっくり、歌うように 二長調 〜 中くらいの速さで、活気をもって
この曲の白眉です。ホルンに始まり、クラリネットがそれに答え、オーボエ、チェロと、様々な楽器が互いに語り合って、カンタピーレ(歌うように)しながら進んでゆきます。込み上げる感情は、頂点を迎えたところで「運命の主題」におびやかされて終ります。
●第3楽章 ワルツ 中くらいの速さで イ長調
緊張を解きほぐすような音楽が始まります。バレエやオペラの中で数々の素敵なワルツをものにしている彼は本来、速度の早いスケルツォを持ってくるはずの3楽章にワルツを導入し、交響曲の歴史に新しいページを加えたのです。ここでも最後に運命の主題が3拍子に変形されて聞こえ、影を投げかけます。
●第4楽章 終曲 ゆっくりとと威厳をもって ホ長調 〜活気をもって速く ホ短調
運命の主題が明るいホ長調に姿を変えて始まりますが、一度は自分のものになったと思えたテーマは再び重くのしかかり、嵐となって襲ってきます。そして、様々な展開を見せた後、最後は運命をねじ伏せた勝利の行進となって、この曲全体を締めくくるのです。オーケストラ音楽の醍醐味をたっぷりと味わえるフィナーレです。
「印象派」という名称はもともと、ルノアール、ゴーギャン、マネ、ゴッホらの生み出した絵画に与えられた名称でしたが、19世紀末のヨーロッパにおいて、様々な方面に影響を与え、音楽の分野でその先駆的な働きをしたのがドビュッシーでした。この作品は、1889年、彼が27才の時、2台のピアノのために作ったものを、友人のビュッセルがオーケストラ用に編曲して親しまれるようになったものです。のちにドピュッシーの名声を決定的なものにする「牧神の午後の前奏曲」が書かれるにはもう3年を要しますが、ベールのかかったような上品な音の使い方や独特のメロディーラインは、すでに彼の個性を十分に示しています。やさしさに満ちたそれぞれの曲の美しさをお楽しみください。全部で4曲から成ります。
●第1曲 : 「小船にて」
フルートが奏でる8分の6拍子のゆったりした歌。 恋人同士を乗せた小舟が、月夜の水面に穿かんでいます。
●第2曲 : 「行列」
おどけた中間部をもつ軽いマーチ。 花びらが散る下を、人々が通り過ぎてゆきます。
●第3曲 : 「メヌエット」
どこか寂しげなメロディーが印家的。風にふかれて踊る人々。
●第4曲 : 「バレエ」
いきいきした音楽です。祭りの夜の熱狂ぶり。
この曲は、ドヴォルザークが44才の時、1884年から85年の春にかけて作曲され、彼自身の手によってロンドンで初演されました。その1年半ほど前に、友人のブラームスをウィーンに訪ね、そこで聴いた彼の第3交響曲に刺激を受けて作られたといいます。発表後に絶賛を浴びてヨーロッパやアメリカで次々と演奏され、後に第9番「新世界」を生み出すアメリカヘと招かれるきっかけにもなりました。没後200年に沸いたモーツァルトほどではありませんが、昨年が生誕150年であったドヴォルザークの交響曲の中でも、第9や第8に継ぐ人気曲です。
歌の国イタリアを代表する作曲家がヴェルディです。『椿姫』『アイーダ』『オテロ』など多くの作品が現在も世界中の歌劇場の主要なレパートリーとなっています。
歌劇『運命の力』は、1862年、ヴェルディ49才の作品で、ロシア、ペテルブルグのマリンスキー歌劇場で初演されました。彼の作品で今なお最も人気の高い演目のひとつです。歌劇全体は、スペインからイタリアヘと舞台を変え、多くの美しいアリアが続き、また数々の劇的な見せ場も多い作品なのですが、主要な登場人物が次々と死んでゆき、最後には主役のカップルも亡くなってしまうという、何とも悲劇的な内容です。
しかし、序曲は、数多いヴェルディの歌劇の序曲のうちでも最も充実した作品であり、単独で演奏会で取り上げられる回数も群を抜いています。金管楽器の重々しい音から始まり、弦楽器が歌劇全体を通じて流れる「運命のテーマ」を演奏した後、劇中のアリアを次々と巧みにつなぎ、最後は力強く熱狂的に終わります。
作曲者ブルッフはブラームスの5年後にドイツのケルンに生まれ、14歳のときには最初の交響曲を書いたという早熟の才能を見せ、後には指揮者としても活躍、合唱曲を中心に、室内楽、歌劇、3曲の交響曲など幅広く作品を残しました。ヴァイオリン曲「スコットランド幻想曲」、チェロ曲「コル・ニドライ」などが知られていますが、今日では3曲残したヴァイオリン協奏曲の中の、この第1番が最も有名です。
この曲は、作曲者の20歳ごろから書き始められ、ライン河畔の町コブレンツの指揮者を務めていた28歳の1866年に完成し、友人のケーニヒスロウの独奏、ブルッフの指揮で、その年の4月24日に初演されました。残念ながら初演は不評で、その後全体に改訂を加え、その2年後に、ブラームスの友人で、当時大演奏家として著名だったヨーゼフ・ヨアヒムの独奏で再演されてから、一転して高い評価を得るようになりました。私たちが今日聴くことのできる演奏はこの時の版で、今宵の演奏もこれに基づいています。
第1楽章には「前奏曲」の副題がつけられており、この曲の白眉である第2楽章に切れ目なく続きます。この楽章は特に甘くて美しく、一度聴くと忘れられません。最終楽章は「力強く」とある通り、前へ前へと進む力に満ちあふれ、最後にはさらに速度を上げて終わります。
ロシアの交響曲作家と言えば誰もが思い浮かぶチャイコフスキーの最後の交響曲である第6番『悲愴』が初演されたのは1893年。ロシア音楽の19世紀を締めくくることになりました。そして、今世紀になってその伝統を引き継ぐ存在となったのがショスタコーヴィチです。ロシアに革命が起こり、社会主義者レーニンの指導下で新政権が誕生したのは1917年。この年、彼はまだ11歳の少年でした。革命後に音楽の教育を受けたことで、時代や政治との係わりを意識した作品を書かねばならなくなったことは、彼の音楽に大きな影響を与えることになります。天才と言われ、18歳で音楽学校の卒業作品として書いた交響曲第1番で一躍有名になった後、ヨーロッパの新しい音楽も吸収して次々と野心的な作品を発表しますが、1920年代に入ってから「芸術にも社会主義の思想を」という国家の方針が出され、スターリンが指導者となった1930年代、それは一層強化されるようになりました。文学、絵画、音楽、演劇など、すペてが何らかの検閲を経た後に国家の用意した場で発表されたわけですから、人々に作品がどう受け止められるかが常に芸術家の国内での地位や生活を左右することになった重い時代でした。そこでは前衛的で難解なものよりも、保守的で分かりやすいものが好まれたことも事実です。
こうした中で、1936年、30歳のショスタコーヴィチが書いたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそれまでの評価から一転、彼を批判の嵐の中に落とすことになり、続いて書いた第4交響曲は、初演を前に発表が取りやめられてしまいました。作品内容が特定の主義のもとで批判を受け、創作活動ができなくなることなど、自由な活動の保証されている現代に生きている私たちには想像もつかないことですが、日本でも戦争で多くの犠牲を払ってその愚かさに気付くまで、国家批判の創作活動が厳しく統制された時代があったことを思うと、彼が受けた重圧を少しは理解できるかもしれません。1年間、彼はじっと耐え続けます。
そして、1937年11月21日、ロシア革命20周年の記念日という晴れの場で、名指揮者ムラビンスキーの棒でこの交響曲第5番が初演されました。結果は大成功で、再び彼はソ連最高の作曲家だとの評価を得ました。「背水の陣」にあった作曲家を救った意味でも、また何よりも今世紀を代表する交響曲の傑作の誕生という意味でも重要な作品です。全部で15曲を残した彼の交響曲の中で最も多く演奏されるようになって、今日に至っています。金管楽器の活躍する第4楽章は吹奏楽にも編曲され、親しまれてきました。ちなみに、日本初演は1949年2月、新交響楽団(今のNHK交響楽団)の演奏、若き山田一雄さんの指揮でした。山田さんと言えば、亡くなられる前のここ加古川での第9交響曲の白熱の指揮を覚えておいでの方もあるでしょう。
●第1楽章 適度な速さで〜余り速くなく、二短調 4分の4拍子
低弦と高弦の語り合いに始まり、寒々とした響きがやがて厚みを増して圧倒的な音の固まりになってゆきます。最低音域のホルンの重い響きや、何かをねじ伏せるような太鼓に乗ったマーチ、そして全員が一斉に同じメロディを奏でるオーケストレーションなど、聴きどころが次々と登場し、フルートやヴァイオリンのソロが静かに遠ざかって終わります。実に様々な表情のある楽章です。
●第2楽章 やや速く イ短調 4分の3拍子 スケルツォ
密度の濃い第1楽章のあと、軽快なスキップリズムに満ちた音楽です。木管楽器やヴァイオリンの独奏もどこかユーモラスで、おどけた感じがありますが、どこかうつろな感じに響くこともまた事実です。何度も繰り返される金管楽器のファンファーレ風の音楽も、心から喜ぶように聞こえないのは私だけでしょうか。
●第3楽章 たいへんゆっくりと 嬰へ短調 4分の4拍子
この優れた楽章を作曲者はわずか3日で書き上げたと書き残しています。演奏する側にも、聴く側にも、強い緊張を要求する音楽です。深い感情が込み上げ、しきりに訴えかけ、そして、深く透明な響きとなって奏でられます。目を閉じて、音楽に身を任せて下さい。彼の残した作品の中でも最高の音楽です。
●第4楽章 速く、しかし落ち着いて ニ矩調 4分の4拍子 3部形式
ティンパニーの連打に乗って、激しい音楽が始まります。運命に立ち向かう意志を思わせる強い緊張感に満ちて進んでゆき、じっと耐え忍ぶような中間部を程て、輝かしい勝利のファンファーレを迎えます。なおこの楽章については、作曲者の死後に発表され、スターリン時代のソ連内情を批判的に描いて衝撃を与えた『ショスタコーヴィチの証言』(中公文庫所収)で「あくまでも強制された歓喜だ」と語った話が知られるようになって以来、解釈に議論のある部分ですが、お聴きになった皆様が判断なさってください。
1877年、44歳のブラームスに、イギリスのケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈るという通知が届きました。この時は仕事の都合でドイツを離れられなかったため、この称号は受けることなく終わりますが、その2年後に、地元ドイツのブラスラウ大学から申し出のあった名誉哲学博士の称号は喜んで受けることになりました。そのお礼として作曲することになったのがこの「大学祝典序曲」です。1880年の夏いっぱいをかけて作曲され、翌年の1月4日、ブラームス自身の指揮によってブラスラウで初演されました。
すでに第2交響曲まで作っていた彼は、その堂々とした作風に従い、初めは威厳に満ちた古風な曲を作るつもりでしたが、途中から後述のようにドイツの学生歌を素材として自由につなぎ合わせる構想に変更し、その結果、曲は実に明るく、楽しいものとなりました。同時期に並行して作曲された「悲劇的序曲」に対し、作曲者自身が「笑いの序曲」と呼んでいるくらいです。
曲は、神秘的なハ短調の導入部のあと、金管楽器で第1の学生歌「我らは立派な校舎を建てた」が奏され、やがて全合奏になります。そして第1交響曲終楽章に似た魅力的な旋律が第1バイオリンに奏でられた後、第2バイオリンとヴィオラが「故郷のわが父」を弾きます。続いてファゴットに始まる「新入生の歌」は曲中で最も有名な部分で、十数年前まで「旺文社大学受験ラジオ講座」のテーマに使われていたので、聴き覚えの方もおいででしょう。最後は「愉快にやろうじゃないか」の曲が壮大に演奏されて終わります。
TVの人気時代劇「水戸黄門」では、町の悪代官が正直な商人の奥さんに横恋慕をし、最後にはさんざんこらしめられて終わるという筋が毎週のように登場します。いわゆる「勧善懲悪」のパターンは古今東西を通じて変わらず、この「三角帽子」も、葵の印籠こそ登場しないものの、筋立ては同じです。原作となったスペインの作家アラルコンの小説は「市長と粉屋の妻」という題なのですが、「代官」と訳すほうが民話風でふさわしく、彼がかぶっている権威の象徴であった三本の角のある帽子が「三角帽子」なのでした。
作曲者のファリアはアルベニスやグラナドスと並ぶスペインを代表する作曲家で、30歳を過ぎてパリで学び、第1次大戦を機に帰国して代表作の「恋は魔術師」と、この「三角帽子」を作りました。ラヴェルやドビュッシーなどの同時代の作曲家とも親交があって、互いに影響を与えあっています。
物語の舞台は、ファリア自身の出身地でもあるスペイン西南のアンダルシア。好色な代官は通りすがりに水車小屋で粉引きをする粉屋の妻に一目惚れ。様々な策で自分のものにしようと企みますが、しっかり者の妻は主人の助けも借りて、それを何とか退けます。作曲は1917年ファリヤ41歳の時で、パントマイム劇の伴奏音楽として初演された後、有名なバレエ振付師のディアギレフの依頼でロシアバレエ団用に改編され、ロンドンで上演されました。ちなみに、この時の衣装と舞台装置はあのパブロ・ピカソが担当しています。
組曲は、作曲者自身が後になってバレエの中から大半の主要な曲を選んで筋に沿ってまとめたものです。
第1組曲は、第1幕から次の曲が選ばれています。
●序奏〜午後 : 素朴な序奏でアンダルシアヘと誘い、昼下がりの水車小屋と町の様子を伝えます。
●粉屋の妻の踊り : 小屋をのぞく代官に気付かずフラメンコを踊り出す妻。これぞスペインという曲。
●代官〜粉屋の妻 : たまらずにのこのこと姿を現す代官はファゴットのユーモラスなソロ。気付いた妻はぶどうの房を代官に差し出します。ゆっくりしたやわらかい音楽は妻の様子を示します。
●ぶどう : 受け取った代官は妻を追いかけますが、トランペットが巡査の登場を示し、帰宅した夫も加わって再びフラメンコを踊ります。
続く第2組曲は、第2幕から次の曲が選ばれています。終幕の踊りの「ホタ」の音楽は特に有名です。
●隣人達の踊り : 聖ヨハネ祭の祝宴に集まった粉屋の近所の人たちがおどる三拍子のセギディーリャ。
●粉屋の踊り : 人々にうながされて踊り出す粉屋。最後は次第に速度を上げて熱狂します。
●終幕の踊り : 最後で代官をこらしめた人々が、彼に似せた藁人形を放り上げて踊る祭りの音楽。
どの曲にも民族色あふれる見事な音楽があふれています。それぞれの場面を想像しながらお聴き下さい。
パウル・ベッカー(1882〜1937)は「ペートーヴェンよリマーラーまでの交響曲」の中で「ペートーヴェンが心に描いていた聴衆なるものの理想的な姿、彼が全力をつくして書き、自分の理想の力と感激とを存分に発揮する勇気を与えてくれた聴衆なるものの理想的な姿は、フランス革命からドイツの自由戦争にまで通じている、あの強い民主主義的な運動の発展した姿なのであります。しかもこれはペートーヴェンの精神に受け取られた発展の姿なのであります。私たちはペートーヴェンの交響曲の持っているあの自由を尊び、心を向上させてくれる力を身をもって体験するたびごとに、改めてこの発展の姿をひしひしと身に感ずるのであります。」と述ペています。1789年に勃発したフランス革命は、ナポレオン・ボナパルトという英雄を生み出し、ペートーヴェンにとっても彼は自由精神、人間解放の旗手と思われました。1798年ウィーン大使としてやってきたベルナドット将軍が、ペートーヴェンの芸術を高く評価すると、ナポレオンに対する興味がいっそうかきたてられ、ついにこの英雄に捧げる交響曲が誕生したのです。けれども、ナポレオンが皇帝に即位すると、「あの男も要するに俗人であった。あれも自分の野心を満足させるために、民衆の権利を踏みにじって、誰よりも暴君になるだろう。」と叫び、怒りとともにこの曲の表紙を破り去り、楽譜を床に叩きつけました。そこには、「ボナパルト」の題名と献辞が書かれていたのです。しかし、本当のところ、その真偽のほどはわかっていません。いずれにしても、私たちが、この交響曲を聴くとき、ナポレオンとの関わりで聴く必要などないでしょう。ベッカーの言葉を借りるまでもなく、この有名な曲は、私たちに彼の高い理想を伝えて余りあるものとなっています。
この曲は1803年から1804年にかけて作曲されました。初演は1805年4月7日にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ペートーヴェン自身の指揮で行われました。(非公開の初演は1804年12月にロプコヴィッツ候の邸で行われました。)
●第1楽章 いきいきと快活に。 変ホ長調
序奏はわずか2小節です。主和音が小節の頭で一拍だけ叩きつけられ、それがもう一度繰り返されます。非常に単純明快な序奏部ですが、後の展開がすべてここに凝縮されていると言っても過言ではないくらい、この曲においては重要な二つの音です。その後、おもむろに奏でられる第1主題と木管楽器による第2主題によって、音楽はドラマチックに展開されていきます。とくに展開部は、膨大な小節数を持っており、ペートーヴェンの本領が十分に発揮されたものとなっています。
●第2楽章 特にゆっくりと。 ハ短調「葬送行進曲」
1821年にナポレオンが死んだとき、ペートーヴェンは、自分は17年も前にこの人の最後を音楽で予言しておいた、と語ったといいます。(イギリスのアバクロンビ将軍のために書かれたという説もあります。)どのような謂われがあるにしても、この曲はこれだけで非常に有名であり、単独で告別式などに用いられることがあります。主題はチェロから独立したコントラパスを支えに、第1バイオリンが荘重に奏でます。トリオはハ長調となり、木管楽器によって明るい旗律が歌われます。続いて冒頭の主題にかえりますが、さらに壮大なフーガヘと発展していきます。その後、再び主題が姿を現し、悲しみと静寂の中で音楽を終えます。
●第3楽章 速く、いきいきと。 変ホ長調
弦楽部だけで出てくる明るいスタッカートのリズムにのって、オーボエが快活に主題を歌います。トリオは、ホルンの三重奏で牧歌的な狩猟ホルンが模倣されます。「英雄」の狩猟を描いたものであるという説もあります。
●第4楽章 非常に速く。 変ホ長調
フォルテッシモで激しく弦楽部が下降する序奏に続いて、ピッツィカートで主題のバスの部分が呈示されます。これは、ペートーヴェンの作曲したバレエ音楽「プロメテウスの創造物」の終曲として用いられたバスの部分と同じもので、これをもとにしてさまざまな変奏が続いていきます。この変奏が実に巧みに作られており、緊張感が途絶えることがありません。最終の第7変奏が全合奏で壮大に演奏された後、長大なコーダに移ります。後半プレストとなったコーダは主和音を執拗に叩いて劇的に終わります。